波間を数える仕事
私の仕事は水平線から落ちる者がいないか見守ることである。
なにせこの世界は平べったく、端に近づきすぎると地面から落ちてしまうのだ。とは言っても、ここにはこの監視塔とりんごの木、少しばかりの花畑しかない。
つまり私一人しかいないのだ。
毎日代わり映えのしないつまらない仕事である。
だが、2年前に転落事故があった。
私とともに監視塔で働いていた赤髪の少女である。
彼女はいつも「外側の世界が見たい」と言っていた。
危険だからやめておけと注意していたが、柵を乗り越え、彼女は端の海岸線に近づいては沈む夕日を眺めていた。
海岸線の向こうには大きな滝があり、その向こう側は世界の外側となっている。
滝のしぶきに反射するキラキラとした輝きを彼女は眺めていた。
そのたびに塔に連れ戻していたっけ。
塔の庭に植えてあるりんごの木。あれも彼女が砂浜から拾ってきたりんごを使って育てたものだ。
彼女の赤髪とよく合うりんごだった。
あれだけ水平線を見つめていた彼女が、毎日大切に育てていたのを覚えている。
だがある日、彼女はいなくなっていた。
おそらく転落してしまったのだろう。
だが不思議と悲しくはなかった。
彼女の笑っている姿が想像できたからだ。
「見て、とってもきれい」
そんな声が聞こえてくるようだった。
それから毎日私は水平線を眺めている。
毎日朝起きて、コーヒーとホットサンドを食べ、塔の上の椅子で波間を数えるだけ。
誰にでもできる簡単な仕事だ。
彼女がいなくなってから監視日誌は使い道がなくなってしまい、小窓からの景色をスケッチすることもあった。
だが、毎日同じ景色ばかり書いていたので見なくてもかけるようになった。
海岸へ向かう彼女を追いかけなければ、塔から出る用事もなくなってしまった。
塔から外へ向かう扉のドアノブには埃が溜まっている。
海岸から見た滝のしぶきはどんな色をしていたかも忘れてしまった。
今日もいつものように水平線から太陽が昇り、沈み、月が昇る。
彼女が帰ってくるかもという期待はしていない。
しかし、水平線の滝のしぶきの光を受ける彼女の瞳を思い出すたびに、「何を見ていたの」と聞きたくなる。
スケッチの紙が床から観測塔の小窓に差しかかるころ、私は知らないうちに監視塔のドアノブに手をかけていた。
草花の香りを巻き込んだ風が、私を駆け抜けた。
満面の星と星雲が私を包む。
りんごの木、花畑、海岸。そして私の監視塔。
塔の上から見るよりすべてが大きく見えた。
彼女がどうしていつも外に出ていたのか少しだけわかった気がした。
彼女が大切に育てていたりんごの木。
最後に見たときはまだ実をつけていなかったはずなのに、真っ赤な果実がいくつか葉陰の隙間から顔を覗かせている。
彼女が知らない景色を一つだけ見られた気がして、心が弾んだ。
私はそのままりんごの木の下へ向かい、木陰で身を横たえた。
眼前には無限に広がる星の海。
頬を撫でる風と、波の音だけが世界の全てだった。
私は星々の間にいて、一歩外側に踏み出せば手が届くかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
風が気持ち良い。
りんごの木からりんごが落ちた。
それを拾い一口かじってみる。
甘酸っぱかったが、苦みが残った。彼女が知らない味、香り。
もう見えないはずの彼女の足跡を追いかけ、海岸の砂浜へ足を沈めた。
指の隙間をひんやりザラザラした砂がくすぐった。その上を波が覆いかぶさり、少しのしぶきが足首に降りかかる。
紙に収まっていたはずの白黒の水平線が、星の光を受けて鮮やかに輝いている。
その光は穏やかに波間に揺られ、私の知らない感覚を海の向こうから運んでいた。
手にはかじりかけのりんごがひとつ。
私は深く息を吸い込んだ。
空を見上げ、一歩を踏み出した。